不慈の村（ ※「読み上げ」機能対応済）

1章　村のわこうど

~その1~

　世の中から見放された孤独な男がひとり、群れからはぐれたこイワシさながらの様子で、暗くて寒いおお吹雪の雪山の中を歩いていた。

　雪の激しさは増し続け、いっすん先も見えないまっ暗闇。男は以前に似たような体験をしたことがあった。憎きブレインフォグを発病したときも、頭の中に濃い霧がかかっているような悪状況に陥り、自分自身を見失いそうになった。しかし、今はそのときよりもさらにひどい。

　からだは芯まで冷え切り、意識も朦朧としてきた。だんだん歩みも遅くなり、ついに立ち止まってしまう。猛烈な風にからだが煽られて、細く長い脚では立っているのが精一杯だ。だけどここで倒れてしまうぐらいなら、ブレインショックで死んだほうがマシだ。そう言い聞かせて男は必死にこらえた。

　しかし、孤独から来る寂しさは男をセンチメンタルにさせていった。生きてることを確かめるかのように、おもむろに凍えきった右手を左胸に当てようとすると、手に"何か"が引っかかってプツンと切れた。嫌な感じがして胸元を見ると、正体はトランペットのネックレスだった。ちぎれた鎖で辛うじてぶら下がっている。これは数年前、なけなしの金をはたいて購入したきんのトランペット。彼の宝物だ。今では錆びて汚くなってしまっている。

　しかし、この男は物ごとをポジティブに考えることに長けていた。きんのトランペットがトルコ石のトランペットになっただけと言い張って、本当は悔しい気持ちをなかったことにした。そんな彼を周りの人々はキチガイと言ったが、それは彼自身が一番知ってることだった。同時に彼はフール（馬鹿者）としての素質も兼ねていた。

　男はトランペットを拳に握りしめ、心臓の鼓動を感じ取った。普段の規則性は失われ、弱々しく脈打っていた。途端に激しい虚無感と脱力感に襲われた。こんな自分は誇ることができないと、自己嫌悪し男はついに膝をついて、雪の上でうつ伏せにうなだれた。指の間から汚いトランペットが滑り落ちて、冷たい雪の上に落っこちたかと思うと、雪の中に溶けるように消えていった。

　視界が徐々にしらんできて、男は初めて死を覚悟した。男にとって死とは、三番目に怖いものだった。彼にとって死ぬより怖いことは鬱になることと、そして何より志を失うことである。

ドン… ドン…

　どこか遠くから迫力のある音が聞こえてくる。極限状態ゆえの幻聴だろうと思った。

ドンドン　ドンドン　ドンドン

　鯨の心臓が、鼓動するようなその力強い音は、確かに男に近づいてきていた。徐々に男の体にもその振動が轟き、共鳴し始めた。何か来る…。そう感じ取ったが、もう頭を動かしたり、（脳を）働かす体力すら残っておらず、そのまま完全に意識を失った。

・・・

~その2~

　香ばしい匂いで目が覚めた。藁ぶき屋根の下、ふかふかした干し草の上に横たわって眠っていたらしい。なんて心地がいいんだろう。

　煙があがっている方向に目をやると、年季の入った囲炉裏でうなぎが焼かれている。良い匂いの正体はこれだ。カラメル色のタレがうなぎの身一杯に塗られ、とてつもなくおいしそうだ。

　ご馳走も目の前にして、男の体は勝手に反応した。男は後遺症のため這うようにして囲炉裏のそばまで行き、うなぎに手を伸ばした。うなぎを手掴みでヒョイと取り上げたとき、突然のことだった。

「だめぇ！！」

　鋭い語気に男はびっくりして、掴んだうなぎを囲炉裏の中に落としてしまった。すぐさま声の方向を見ると、家屋の入り口に1人の少年が立っていた。

「じいちゃんが採ってきた山椒かけろ？？、うまいじゃろからのぉ」

　突然の出来事に男は動揺したが、言われるがまま落としたうなぎを拾い上げ、山椒をかけた。

「そいつは今朝、オラが捕ってきたんじゃー」

ひとりで喋る少年を、男は唖然としながら見つめた。

「ふぇ？なんだ早く喰わんか？」

その言葉で男は我に帰った。

　よくよく考えると雪山で遭難してずっと何も口にしていなかった。吹雪の夜に絶命しかけたところを、奇跡的にこの優しい方たちに助けられたらしい。

　だけど、とにかく今は食べなければ！！そう考えるや否や男はうなぎを頬張った。口いっぱいに懐かしい味が広がった。うますぎる。

「うまいじゃろーーー。もっと食え食えー。乞食のようにな。んふふーーー！！！」

少年は次々にうなぎを進めてくる。

　口の利き方は少々生意気だが、ありがたいことだ。

　この少年は大自然の中で育てられ、土地や財産という概念を知らないのだろう。今日採れた食材を今日食し、余ったものはよそものへ分け与え、けっして見返りは求めない。そのような哲学を大自然から学んだのだろう。このように男は考えた。論理的思考力はマジで神な、この男だからこそ導きだせた結論と言えよう。